N5747Z-29
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少しだけ人体の損壊描写があります
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青年と女とキャンピングカー

 気味が悪いほど清々しく晴れ渡った青空の下、砂埃で薄汚れた屋上にて金属がこすれ合う音が響いた。

 金属音の発生源は、全身を黒で染めた矮躯の青年の手元にある。グレーと黄土色の二色が描く複雑な迷彩パターンで本体を塗装されたクロスボウであった。

 剛性の高いフレームの上に張りの強い弓を載せ、ボルトと呼ばれる専用の矢を打ち出す兵器であり、中世に騎士が殺し合いをしていた頃から続く歴史のある物だ。それが、現代の技術と絡めて生み出されたキメラであった。

 「どうだ?」

 留め金にかけようと補助具を用いて力を込め、張りの強い弦を絞るのに苦労していた青年、その背に声が投げかジャケット ファッション
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けられた。補助器具のおかげで力がかかる点が分散し、半分ほどの力で絞れるようになった弦を後端まで持って行った後で、小さく息を吐きながら振り返る。

 すると、そこには上半身をブラジャーだけで隠した長身の女が居た。180cmを越える長身に、豊かに貼り出した乳房。雑誌の表紙を飾れるモデルにも勝るとも劣らぬ怜悧な美貌を誇る女であった。

 「速射はできませんが、まぁ何とかなりそうです」

 普通の男性であれば劣情を催さざるを得ないほど肉感的で妖艶な体を前にして、青年は眉根一つ動かす事なく返事をし、クロスボウを地面に一度置いた。

 舗装されたコンクリートに硬質な音を立てて立てかけられるクロスボウ。バランスが安定している事を確かめてから、青年は背後に置いてあったもう一つの弓を手に取る。

 黒い複合フレームのコンパウンドボウ、クロスボウと同じくアーチェリー部の部室から失敬してきた物で、十分に殺傷能力を有している兵器だ。競技用エアライフルでは殺傷能力には不安があるので、あり物は活用せざるを得ない。

 「それは僥倖」

 笑いながら女は手動式の充填機を動かし、自らの愛銃にエアを充填する。近年ではメジャーな形式のプリチャージ式エアライフルはボンベでの充填もできるが、自転車の空気入れにも似た充填器でも充填できるのだ。

 「こっちの弾は備品をあるだけ持ってきたから弾切れの心配は無いな。とはいえ、パッキンの摩耗なんぞも考えると使えて数ヶ月だな」

 女は忌々しそうに舌打ちを零す。エアの充填部などに用いられるゴムパッキンは消耗品で、一年か二年で交換しなければならないのだが、この女のエアライフルはその時期が近づいていたのだ。その為の金を捻出する為にポケットティッシュ配りも辞さないと思っていたが、結局は交換するタイミングは永遠に失われてしまった。

 ざらざらと音を立てる円形の缶を取り出して女は小さく溜息を吐いた。薬用ドロップにも似た缶には、4.5mm口径のエアライフル用弾丸ペレットが数百発単位で詰まっている。弾丸は備品であり、消耗品なので段ボール一箱分ほどの備蓄が部室に蓄えられていたが、それを根こそぎ持ってきてあるのだ。打ち切ろうと思えば一週間一睡もしないで撃ち続けても不可能だろう。

 狩猟用ならばもっと大きい口径もあるのだが、競技用では一律で4.5mmだ。同じエアを用いるエアーガンよりも1.5mmも小さい。しかし、その空気圧はエアーガンよりもずっと上だ。至近距離で場所を選べば骨を貫くこともできる。狩猟用の高圧プリチャージエアライフルであれば、鹿などの分厚く頑強な頭蓋を持つ生物にトドメを刺すのにも使える程なのだ。

 ただ、悲しいかな彼等が持っているのは競技用なので、そこまでの威力は全然ないのだが。狩猟用であれば五〇ジュールものエネルギーを持つが、競技用ではその半分にも満たない。

 とはいえ、飛んでいる鳥を撃ち殺す程度の威力はあるので至近距離で目にでも向かって打ち込めば、眼底より奥の薄い骨を突き破って脳みそをかき回すことも可能だ。流石に丸みを持った頭蓋をたたき割るだけの火力は無いので、そうせざるを得ないと言い換えることもできる。

 四角くボトルキャップほどの大きさしか無い弾倉を取り出すと、女はそこにペレットを適当に流し込んだ。少なくとも暫くはリロードを必要としない量が収まる。

 「しかし、使い物になりそうとは言ったが、当てられるのか?」

 軽く駆動を確かめながら、女はコンパウンドボウの矢を収めた矢筒を何処にぶら下げるべきかと考えていた青年に問うた。最終的にベルトに通して右腰の裏側にぶら下げることに決めたらしい青年が、矢筒から一本のカーボン製の矢を取り出してアローレストにつがえる。

 そして、一息に顔の側面にまで弦を引き絞る。腕の筋肉が僅かに隆起し、血管が浮かび上がった。競技でも立射となると、エアライフルをそれなりの時間保持し続けなければならないので、ある程度の筋肉は必要だ。故に、競技に耐える為、青年の矮躯には筋肉質、とまではいかないまでもしっかりと筋肉がついていた。

 コンパウンドボウは構造上、複合弓よりも弦にかかる負荷が重いが、機構により弦の重さを軽減している。それに、これは本格狩猟用というよりも的当てに使うレジャー用に近い仕様らしく力強さに欠ける青年でも楽々絞る事ができた。

 そして、片眼を軽くつぶって弦に据えられたサイトを頼りに当たりを付けて……離した。

 快音が鳴り響く。張り詰めた弓が帰る際にもたらす凄まじい加速度が矢に運動エネルギーを与え、末尾に添えられたプラスチック製の矢羽根が回転による安定をもたらす。風を切りながら飛翔した矢は、七~八mほど離れアルミ缶の中央を見事に穿った。

 中身が入っていた缶から、黒い炭酸の液体が激しく噴出して地面を汚していく様を見つめながら、女は小さく拍手を送った。八mも離れていて当たるなら、戦う的を考えれば十分だ。

 「今の状況なら及第点か。やるじゃないか、ここ数日の俄仕込みの割にはな?」

 素直に褒める言葉をかけられたのだが、青年は何処か不機嫌そうに弓を降ろして矢を回収に向かった。缶をぶち抜いて僅かにコンクリートの床を削りながら転がった矢を拾い上げ、大きく歪んでないことを確認してから矢筒にねじ込む。

 何故不機嫌そうなのだろうかと女が首を傾げると、青年はぼそっと言葉を零した。

 「……狙ったのは隣のペットボトルなんですがね」

 言われて見てみると、打ち抜かれた炭酸飲料の横には空のペットボトルが立っていた。なる程、確かに的にするなら中身が入っていてまだ飲める缶よりも空のペットボトルの方が相応しかろう。

 「……まぁ、もっと近づけば良いだろ。その内慣れるさ」

 ライフルを片に担ぎ上げ、フリーになった右手で頭をバリバリと掻きむしる女。青年は何も言わないまま、感覚を掴むためにかもう一度矢を引き抜いた。

 「頼むから、私でウイリアム・テルごっこをせんでくれよ」

 虚しく矢が地面に突き立つ音が響いた…………。









 十数分後、脱ぎ散らかしてラフな格好になっていた彼等は打って変わって重装備に身を包んでいた。

 適当に洗って乾かした服を着込み、青年はその上に運動部のジャージを羽織り、女は何処からか調達してきた革ジャンをジャケットの上に重ね着している。

 首元にタオルを撒いて何処からも素肌が見えないようにして、鼻から下をバンダナで覆い隠す。そして、手にはエアライフル競技で使う物とは異なる革手袋をはめる。それのみに留まらず、破片が飛んできても目を傷つけないようにする為の競技用ゴーグルまで装着していた。

 これは、彼等がここ数日間上からのんびりと気儘に眺めていた地獄から学び取った対策だ。どうやらアレは接触感染するらしい。

 単純に触れるだけでは問題ないのだが、傷口や目に口腔などの粘膜系統に血や唾液が触れると不味い。死体を運んでいる男が、その最中に金具で怪我をしたと思えば、数時間後には体調を崩して倒れた。そして、数日後にはフラフラと彷徨っている奴らの仲間入りだ。

 大学構内に立て籠もっていた彼等が、その事に気付いた時には手遅れだった。誰もが大なり小なり傷を負っており、不安に任せて粘膜接触を行った者も居たのだろう。分かった時には生き残りの中に蔓延していた訳だ。

 何度目になるか分からないが、彼等はロメロを知らないのだろうかと青年は思った。彼の監督の作品に馴染みがあれば、やってはならないことなど直ぐに分かったであろうに。何が役に立つか分からないから、世の中はげに不思議な物である。

 「よし、それじゃあ行くか」

 分厚いバンダナに阻まれ、僅かにくぐもった声を女は上げた。青年は黙って頷き、いじくり倒していたコンパウンドボウを持ち上げる。スリングで腰の裏側にクロスボウをぶら下げているが、これは長距離を狙うときか矢が尽きた時に使うのだろう。

 女が顎で扉を示し、青年は無言で扉のノブを握りつつ扉に耳を押し当てる。冷たいヒンヤリとした鉄扉の温度が伝わると同時に、扉を通じて聞こえる己の呼吸だけが耳朶に低く響き渡った。

 呼吸を止め、感覚を研ぎ澄ますも、帰ってくるのは小さな耳鳴りだけだ。扉の向こうは極めて静かだった。何かが歩くような音や声は一切聞こえてこない。

クリア、そう呟いた後で青年は扉を開け放った。女は肩付けのゆったりしたスタンスでライフルを構え、青年が音を聞いている時から既に扉の向こうを狙い続けている。

 しかし、扉の向こうには誰もいない踊り場だけが広がっていた。かび臭さと、それに混じって香ってくる僅かな腐臭。この建物にも少しながら人が居たのだろうか。

 女が先行し扉を潜った。その背に青年も続き、後ろ手に音を立てないよう気をつけて扉を閉める。それでも、油の切れた蝶番が立てる軋みは消せない。耳障りな金属同士がこすれ合う音が踊り場を満たす。

 階段は普段と何も変わらないように見えた。微妙に剥げ始めたリノリウムの床、経年劣化で壁の塗料が爪の先程の大きさで所々を剥離させる壁紙。手すりの裏には面倒臭がった学生が貼り付けて黒く変色し固まったガムもあった。何もかもが見慣れた学舎そのままだった。

 だが、何もかもが普段どおりだからこそ異質で不気味に感ぜられる。昼間の平日ともなれば校舎は講義室から漏れ聞こえる教授の声や、雑談に興じる生徒の声で溢れている。だのに、今ここには静かな二人の息づかいと腐臭しかない。変わらないからこそ、不気味さが際立つのだ。

 どれほどそうしていただろう、数分間ほど二人はぼうっと突っ立ったままでいた。いや、無意味に立っているのではない、自分達が動いた事で何らかの変化が起きないか伺っていたのだ。

 何も起こらないと納得したのか、女は手首の先だけをちょいと振る。前もって決めておいた前進のハンドサインだ。言葉を用いないのは雰囲気に浸るためではない、状況が状況なので可能な限り静かに動くべきだと判断したからである。

 一歩一歩を床を擦る程にしか踵を上げずに足を送り出す。靴音を少しでも小さくし、大きな音を立てるためにだ。アローレストに矢を乗せながらも弦を絞らずに居た青年は、まるでこそ泥のようなだと思った。

 綺麗とは言い難い、使われていたが故の自然な汚れが目立つ階段を下りていくが、階段だけは普通でも他は違っている。防火扉が閉じられ、講義室に通じる廊下と階段が完全に隔離されているのだ。一階まで全ての廊下が同じように封鎖されている。階段は北側と南側にあり、屋上に通じるのは自分達が降りている北側の廊下だけで同じく防火扉が降りるのも北側だけだ。その変わり、南側では一階の階段にシャッターが降りるようになっている。恐らく、南側ではシャッターが降りているのだろう。

 もしかしたら、ここに立て籠もっている生き残りが居るのかも知れない。死体には扉を開けるだけの知性を持ち合わせていないようなので、生存者が籠城のために全て閉めたという可能性が無いとは言い切れない。

 だが、二人は敢えてその可能性を無視した。普通の神経を持っていれば扉を叩いて生存者の存在を確認しただろうが、その可能性を理解して尚素通りすると決めたのだ。それも、一言も交わさず二人同時に。

 彼等の思考パターンは極めて似通っていた。まず思ったのは、ここで生存者が居た所でどうなるのか? という事だ。

 まず、間違い無く足手まといになるだろう。武器を貸してやっても戦力になるとは限らないし、首尾良く逃げ出した後に我が儘を言い出して手を煩わされるかもしれない。何らかの武道に習熟していて、助けになる可能性もあるが、ならない可能性の方が高いのだ。

 ならば、置いていった方が良い。その方が自分達の身は安全だ。

 そういった思考の元に、二人は生存者の可能性を無視した。利よりも不利になるだろうと冷徹な計算を頭の中で行って。何より、連中が音に反応するらしい事は上での観察で分かっているのだ、大人数で動いたならば必然的に連中を引きつけてしまう。そんな危険を冒すくらいなら、名前も知らない他人が、あの中で餓えていようと恐怖で震えていようとも知った事ではない。

 他人の命を気にするのは自分の命に余裕があるときだけ、これは普通の感性を持っている人間でもそうだろう。手を離さなければ自分が崖から落ちてしまうのに、誰かの手を掴み続けられる人間なぞ早々居ないのだ。そして、そういった計算ができない奴から死んでいく。

 一般人でもそうなのだ、思考の方向性がおかしい二人ならば尚更である。例え、目の前に現れて懇願した所で彼等は容赦なく障害として生存者を排除しただろう。

 静かにシャッターが下ろされた階段を下りきり、キャンパスに出た。平日には殆ど毎日眺めていた光景だが、そこは今までと大きく変わっていた。

 煉瓦調のブロックが敷き詰められた洒落た街路に立ち並ぶ近代的ながらも何処かデザインに西洋の色を見せる各学部棟。見渡せば所々に立ち並ぶ新規生勧誘の為の立て看板が道を賑やかす光景は、間違い無く春の大学だ。

 しかし、今やそこは地上に顕現した小さな地獄に他ならない。

 食い散らかされた死体や人体の破片が散らばり、動く死体がちらほらと足取りもおろそかに歩いている。立ち籠めるのは噎せ返るような肉と血の腐敗臭。二つの腐臭が混ざり、形容しがたい不思議な悪臭と化し、鼻の粘膜を冒しながら生理的嫌悪感で胃を顫動させる。

 そこらに施された血のペイントは黒く変色し、乾いて張り付きロールシャッハテストのように意味の無い図形を描く。どこまでも人を不安にさせる凄惨で不気味な光景であった。

 転がる死体の数は、見えるだけでも五体はある。その殆どが獣性に突き動かされた死体に引きちぎられ原形を留めていない。四肢は引きちぎられ、胴と上半身が分かれているのは当たり前。頭部は中身を啜る為にか頭蓋を砕かれた物まであった。

 骨になるまで肉を削がれ、毟られ、囓られた亡骸。人だった何かは、まるで自らの無念を語るかのように風が吹くとかさかさ揺れた。肉が殆ど無いから、風が吹くだけで動くほどに軽いのだ。

 「上から見るのも壮観だが、こうやって同じ目線で眺めるとまた違って見えるな」

 ぼそりと、バンダナ越しの不鮮明な小声で女は零した。その声はどこまでも平坦で、表情は小揺るぎもしない。見るだけでも気持ち悪い惨状を観察しながら、女は完璧に平素の儘であった。

 それは、背後に控える青年も全く同じ事だ。かつては同じ学舎で机を並べた者達の残骸を見ても、嫌な臭いだとしか感じていない。顔が判別できない死体ばかりだが、その中にはもしかしたら同じ学部で同じ講義に出ていた生徒も居たかもしれないというのに。

 女は軽く周囲を見回して、良くないな、と思った。死体が、ふらふらと方向を転換して此方に顔を向けつつあるのだ。

 四肢の何れかを失っていたり、下半身を失って腕を頼りに這いずるしかできない死体の群れ。緩慢な動作で足を送り出しながらも、見えぬ瞳で奴らはやってくる。ひたすらに食欲を満たす為に。

 「さっさと駐車場に行こう。取る物取ったらスタコラサッサだ」

 発言が昭和ですね、という感想を飲み込んで青年は頷いた。普段ならまだしも、こんな所で口喧嘩をやらかす余裕も度胸も無い。

 目的の物が止まっている駐車場はキャンパス東部に置かれた駐車場にある。三階建ての立体駐車場で、教職員専用となっている。そして、自動車部や自動二輪部の備品置き場でもあった。この大学では教授の発言権が割と大きいのか、そういった施設に自らが部長を務めるサークルの備品を置くことは珍しくないのだ。

 階段を下りるときよりも早足で二人は歩き始めた。外なので音が大きく反響することは無い。今必要とされるのは繊細さよりも大胆さと迅速さだ。

 死体はちらほらとしか出てきていない。夜になるとわらわら食べる物を求めて暗がりから出てくるが、昼間は影に潜んでいて静かな物だ。連中にはきっと負の走光性があるのだろうと二人は踏んでいた。視覚に頼っていないのに? という疑問はあったが。

 兎角、掃除されていないせいで僅かに散った砂を巻き上げながら進む。死体を迂回し、狭い道や物陰は避けて。路地から死体が飛び出してきたら反応しきれるか分からないのだから、潜在的な危険を避けるために彼等はできるだけ道の真ん中を進むようにした。

 道の真ん中を這いずっていた死体を避けると、ふと経済学部棟の一階が目に入る。一階部には壁が殆どなく、代わりに椅子が置いてあり休息所となっているのだが、そこにはシーツにくるまれた何かが沢山転がっていた。そして、それはシーツの束縛を解こうとしているのか蠢いている。

 推測するまでもなく死体だろう。死体置き場にしていたのだ、彼処を。室内に置かなかったのは、そう遠くないうちに焼く予定でもあったからだろうか。そうであるなら、確かに運び出しやすい場所に置いておく方が良い。

 歩き慣れて細部まで知り尽くしたキャンパスを二人は駆けていく。死体は何かを感じ取ったのか、少しずつ表に出てきているが問題になるほどではない。少し迂回することになっても大きな道を通って確実に駐車場へと近づいていった。

 しかし、ある道で女がふと立ち止まる。移動し続けないと危険だというのに、何をしているのだと青年が女の見ている方に目線をやると、一体の死体が彷徨っていた。

 黒いジャケットにジーンズを着た死体で、損傷は少ない。精々、噛まれたらしい首筋が酷く裂けているのと、引き摺り倒すときに引き抜かれたと思しき右側頭部の頭皮程度だろう。

 女の目線は、その死体。より正確に言うなら、その死体の右肩に引っかかっている鞄に注がれていた。

 何かあるんですか、と問う暇も無く女は駆け出し、死体に接近する。

 急に何を馬鹿なことを! と青年は声を上げそうになった。無意味な戦闘を避けようと示し合わせて出てきた筈だ。例え、一体であるならば破壊するのはそこまで難しくなかったとしても。

 だが、女は突然何の理も無しに死体に近づくと、その顔にライフルの狙いを付ける。右半身に開いたスタンスに移る動作は実にスムーズで見事な物だ。構えられた後は、ライフルの先端がぴたりと止まって動かない。僅かな震えすら帯びず、まるで虚空に固定されたようであった。

 ライフルは筋肉ではなく、骨格が噛み合わさることによって安定して保持される。そして、その構えを取るのには女性の骨格の方が適していると言われるが、女のそれは極めて高いレベルで完成していた。ただ筋肉によって腕を上げ保持するだけだとライフルは震え、照準にブレが生ずる。しかし、骨を軸に構えれば震えが傍目には見えぬ程に安定する。

 狙いは目に向いていた。そして、数秒もかからぬ内に引き金が絞られ、圧搾された空気の銃声が産まれた。

 死体の頭が後方に弾ける。これが本物のライフル弾であったなら、弾丸は頭蓋を貫通して腐った脳漿を後頭部から盛大にばらまいたことだろう。

 4.5mmペレットは目に入り、柔らかな眼球を突き破りながら進んで目の奥にある薄い骨を貫通して小脳に潜り込んだ。そこで運動エネルギーが尽きて動きは止まるが、衝撃は脳みそをかき乱して破壊する程度には残っている。そして、僅かに電気信号を放って体を動かしていた脳が潰れた事により、死体は漸く永遠の安寧に身を横たえることとなる。

 死体が頽れ、動かなくなったのを確認すると、女は構えを解いて死体の側にしゃがみ込む。手を伸ばしたのは、肩から惰性でぶら下がっていた鞄だ。

 「何やってるんですか」

 青年は僅かに苛立ちを滲ませながら女に詰め寄った。確かに今は周囲に死体はおらず、それ一体だったので危険は少ないが、かといって勝手に行動して良い訳ではない。

 女は応えぬまま鞄に手をねじ込んで何かを取り出すと、立ち上がって周囲をきょろきょろ見回す。そして、一番近い死体でも三〇mは離れている事を確認すると、一息吐いてバンダナを降ろした。

 一体何を、と思ったが、次の瞬間視界に入った物を見て青年はあきれかえった。

 紅い煙草のパッケージだ。

 「それの為に……?」

 女は鷹揚に頷いて、箱を開ける。その顔はとても満足そうだ。一〇本ほどの煙草が箱の中で斜めを向いて収まっていた。

 吸われるのを静かに待っていた煙草の内一本を取りだし、一旦口に咥えた後でパッケージは懐に。そして、懐に煙草をしまった手は、煙草の代わりにライターを持って出てきた。胡蝶がレーザー刻印された愛用のオイルライターだ。

 女は一旦煙草を左手で取ると、右手に持ったライターの腹にフィルターを下にしてリズム良く叩きつける。先端を二本の指の腹で緩く保持して、細かいリズムで刻むようにして。煙草は少しずつ指の腹を滑って登り、最後には摘まれている部分を下端までずらす。

 この動作は、煙草の巻紙に包まれた葉をフィルター側に詰め直す為の物だ。長い間持ち歩いた煙草は中身が偏って燃え方がばらけたり、火玉が途中で溢れたりする事がある。それを防ぐ為に葉を詰め直すのだ。

 緊迫した状況の中で、女は丁寧に葉を詰め直してから煙草を咥え、静かにライターで火を灯す。先端に火が近づくと、葉と巻紙がちりちりと燻り、息を吸うことで酸素が取り込まれ完全に火が移った。

 そうして、口腔に溜めた煙草の煙に浸すよう僅かに舌を動かして香味を確かめた後、肺の奥へと煙を送り込む。薫り高くもいがらっぽい煙が気管を通して入り込み、人体にとって有害なニコチンやタールを取り込んだ。

 窄められた唇から色を濁らせた煙が筋となって吐き出される。煙は暫し対流した後に、溶けるように消え去っていった。

 「うん、美味い」

 「おい」

 流石に青年も敬語を忘れた。命が係ってる時に何をやっているのだと憤っても仕方があるまい。

 「ああ、悪い悪い。鞄から煙草のパッケージが覗いてるのが見えてなー。堪えきれなかった」

 勘弁してくれ、と笑う女に対し、青年は沸き上がった怒りが高まって、再び呆れに戻ってきた。内心の声を拾うとしたら、何だ此奴は、だ。理解し難い生き物だとは思っていたが、想像の斜め上を行ってくる。

 「無いと落ち着かないんだよ。まぁ、好きな銘柄じゃないから満足感は劣るがな」

 口の端に煙草を保持したまま女は器用に喋る。動きに合わせて先端が揺れ、煙もくゆるが火玉や煙草そのものが落ちる気配はない。

 「そんじゃあ行くか。悪いな、許せ」

 咥え煙草のままで、再び女はライフルを手に取り道の先に向き直る。青年は、それ以上何も言わないで後に続いた。ただ、一つだけ大きな溜息を零して…………。










 耳朶を異音が打ち、違和感に青年は瞼を開いた。

 仰向けに転がる視界に広がるのは見慣れたキャンピングカーの天井だ。天窓が開けられ、適当に飾り板が張られた内装。いつも通り何も変わる事は無い。

 ぼぅっと血の周り切らない脳で考えていると、体が僅かに揺れているのが分かった。異音は外から、正確には壁から聞こえてくる。

 「……ああ、押されているのか……」

 車体がぎしぎしと小さな軋みを上げている理由は、考えるまでもなく死体だろう。前に小用を済ますため起きた時から車体を叩いている音は聞こえた。あれからまた入り込んだ数が増えたのだろう。車体を僅かであるが揺らす程なら、一〇体前後はいるのだろう。

 とはいえ、キャビンを有するキャンピングカーの巨体は揺すられはするが、そこまでだ。これを横転させようと思えば、もっと大勢が必要になるだろう。

 一度大きく息を吐いてから、まだ暫くは問題ないなと青年は安堵する。

 不快さと暑さは少し落ち着いている。関節痛は残っているものの、山は越えたのか辛さはかなりマシになった。だが、流石に銃を持って外の連中を掃除できるほどにではないが。

 もう一踏ん張りか。そう思いつつ、ミネラルウォーターのボトルを取り上げて中身を煽った。ふとベッドの下を見やると、無数の空ボトルがゴロゴロと転がっており、車体の揺れに合わせて動いている。

 備蓄は唸るほどあるが、随分と沢山飲んでしまった。まぁ、飲まねば脱水で死ぬだけだから仕方が無いのだが、また色々と探しに行かねば。

 青年は自分が起きた気配を察して近寄ってきていたカノンの頭を撫でてやり、呟いた。

 「もう一眠りする。終わったら手伝ってくれよ?」

 汗臭くなった寝床に潜り込む青年に、カノンは小さく鼻を鳴らして応えた…………。










 さて、どうするか、と呟いて女は根元まで吸った煙草を取り上げた。最後の紫煙が口から溢れ、一本のポールに吐きかけられる。

 二人が立っているのは三階建てで屋上も露天駐車スペースになっている職員用の立体駐車場だ。大学構内は建物と建物の間隔がかなり空いていて広いので、ここまで女が煙草のために馬鹿をやった一件以外、全く死体と関わる事なくやってこられた。

 しかし、いざ来てみたら問題が鎮座しているのだ。出入り口のど真ん中に堂々と突っ立っている車止めである。

 この駐車場には二カ所出入り口があり、どちらにも車止めがしてある。片方は殆ど裏口なのでスライド式のシャッターで封鎖されており、二人が今立っている入り口にはチェーンが貼られ、その真ん中に鉄のポールがチェーンを通して屹立している。

 この車止め、直ぐそこにある監視所の操作でチェーンが降りるようになっていて、使わない時はこうやってポールを引き出して更に頑強に封鎖している。盗難や不正利用を防止する為なのだろうが、非常時には何処までも邪魔な存在だ。

 それに、電気が来ていないので中からも操作はできまい。挙げ句、ポールは勝手に仕舞えないように南京錠で止めてあるからどうしようもなかった。

 チェーンを吐き出している柱を見れば、緊急時にどうにかする為か分からないが操作盤らしきものもついているのだが、勿論それにも鍵が掛かっている。壊そうにも、柱に埋まるように設置しているので下手に殴れば凹んで二度と開けられなくなりそうだ。

 「流石に突っ込んだら壊れるよな」

 女は言いつつ、二本目の煙草を取り出して咥える。そして殆ど燃え尽きた煙草の火種を先端に寄せ、火を移した。

 車止めは文字通り車の通行を妨げるものだ。細いチェーンと単なるポールにしか見えないが、それでいて頑丈だ。高速で突っ込めば普通に前面は潰れるだろうし、低速なら折れはしないはずだ。直径が30cm近くある立派なポールなのだから、ちょっとやそっとで折れはすまい。

 これが街路によく立っている、下端の方にバネ構造を以て衝撃を緩和する脆い物なら突破してやろうか、とも思えるのだが、こうにも分厚いと被るダメージが露骨に想像できるので、とてもでは無いがぶつかる気にはなれなかった。

 最近の車は自ら潰れる事で衝撃を分散し乗員を守る構造を取っているので剛性に欠ける。なので、それで潰そうと思っても無理だろうと青年は思った。鍵を探すかどうにかしなければならないのでは……と考えていたのだが、女が急に、良い事を思いついた、と行ってチェーンを跨いでいく。

 そして、何やら止まっている車を物色し始めた。暫く車を色々見た後で、一台の車に目を付ける。乗用車というよりもサーキットで乗るような車で、それには自動車部というステッカーが貼り付けてあった。

 「どうするんですか、それ。回路の直結でもするんですか?」

 「真逆。そんな都合の良い技能を保ってるわけ無いだろう」

 ふと、映画で良くある光景が思い浮かんだ青年であるが、女はそれを切って捨てた。ただ、それでも女がニヤニヤしながら回路を繋げて無理矢理エンジンを起こす様は、少し似合っていると感じてしまったが。

 「ただ単にちょんぱってきただけだ」

 ずるり、と擬音が出てきそうな勢いで無数の鍵をまとわりつかせた鍵束が女の懐から出てきた。鍵と一緒に仕訳のタグも付いているが、一番大きくて目立つのは自動車部、備品というタグであった。

 「どうしたんですか、それ」

 「ああ、部室棟から色々失敬するときについでに貰ってきたんだ。もし目当てのキャンピングカーが動かなかった時の為にな」

 そう、足を求めていた女が、人が居ない部室を荒らした時に、部室の中に車の鍵、と書かれ箱が施錠されて壁に張り付いていたので、使えると思って鍵を破壊し、失敬してきたのだ。

 気が回ると言うべきか、それともこざかしいと言うべきか迷ったが、青年は何も言わなかった。貶そうが褒めようが面倒な事になりそうだったから。

 「ま、こんな事もあろうかと、って奴だな。一回言ってみたかったんだよこれ」

 そういってジャラジャラと鍵束を漁って鍵を探す。キー毎に車種が書いてある物もあれば、廃棄済み等と言うシールで上書きしてある物もある。整理ぐらいしろよ、とぶつぶつ呟きながら女は鍵を探り、暫くして対応している鍵を見つけた。

 車のロックを外しつつ、中に乗り込む女に、青年はそれでブチ破るんですか? と問うた。

 「頭が硬いな。あの車止めをぶち抜いたら大怪我しかねないが、一階の壁面はフェンスの部分もあるんだよ」

 暫くして、青年は納得したように頷いた。一階部分には薄いフェンスだけで壁が作られており、確かにそこならぶち抜いても大事故にはならない。

 「お、掛かったな」

 女が鍵をねじ込んで回すと、エンジンが起きて重低音を奏で始めた。青年にはよく分からないが、女はいい音だとご機嫌である。

 しかし、少々喧しすぎる。これでは死体を呼び寄せてしまうだろう。

 「よし、破城鎚は手に入った。後は目的のブツを探そう」

 一度エンジンを止めると、青年の返事も聞かずにツカツカと二階へと向かっていく。青年は、無茶苦茶しやがる、と思いながらも、やはり口を噤んだ。

 坂道を上って二階へと向かうと、その奥に目当ての車両が鎮座していた。旅研がサークルで所有する、という名目で揃えられた教授の道楽、空色に染められた青いキャンピングカーだ。車体前部とキャビンが一体化し、一々外に出ないでも行き来できる中型の物だった。

 「ほう、中々どうして立派じゃないか」

 確かにキャンピングカーは立派な造りをしていた。大型でずっしりした、日本車には無い過剰なまでの重量感と安定感が感じられる。確かめた訳では無いが、生産国は米国に違いあるまい。

 「で、これの鍵もちょんぱったんですか?」

 「いや、旅研はキャンパス跨いだ別棟にあるから行けてない」

 そういえばそうだったと思い返す。だが、それでは車は動かないのではないだろうか。

 「だが、私の知人に旅研の奴が居てな。ちょっと雑談で聞いた事があるんだよ、部長は鍵を直ぐ無くすから、予備を上の工具箱に置いてあるってな」

 上、と言われてキャンピングカーの上部を見やると、そこは平らになっており縁には手摺りが据え付けられている。梯子らしき物は見当たらないので外から上るのにはよじ登るしか無いだろうが、確かに荷物は置けそうであった。

 「よし、行け」

 そういうと女はキャンピングカーの側面に体を預け、腰を落とし手を組んで身構える。踏み台になろうというのだ。

 こういうシチュエーションでは本来男が女を持ち上げて色々やらせるのだろうが、残念ながら今回は逆だ。青年の方がずっと背が低く、女の背は一八〇cmを越えているのだから仕方の無いことだ。何より、体格が違うと体重も大きく変わってくるのだ。

 担いでいたバックパックを下ろし、コンパウンドボウをその上に置くと青年は女の前で軽く身構えた。

 「みっつ数えたら行きます」

 「なぁ、それって三になった瞬間行くのか? それとも言い切ると同時に……」

 女が言い切る前に青年は数え初め、三の発声も力強く数歩の助走の後に女の足を踏み台にしてキャンピングカーの上に飛び乗った。なんだかんだ言いながらも、女はしっかりと腕を跳ね上げて跳躍を手助けしていた。

 「おお、ぶっつけだが上手く行くもんだな。これも一回やってみたかったんだ」

 下から響く脳天気な声を無視して、青年は車体の上を探った。幾つか半円形のローブを通す輪っかが溶接されて止まっており、その輪に通ったロープで空のジェリ缶などが括り付けられている。それらの用具の中には赤さびが浮いた工具箱も含まれていた。

 鍵をかけるための輪が備えられた雄雌の蓋留めが着いているが、南京錠は掛かっていない。不用心ではないか? と思いながら開くと、中には工具が乱雑に散らかっていた。どれも古びて錆が浮き、露骨に使われていない事が伺える。

 金槌やハンドソーを怪我しないよう気をつけつつ取り出していくと、釘の入った升が見つかる。もしや、と思って漁ってみると当たりだった。リモコンの付いた車の鍵が出てきたのだが……少し錆びている。

 それはそうか、と錆び釘の群れを見つめつつ、青年は軽く眉を顰めた。確かに知らぬ人間が開いても簡単に見つけられないようにするというアイデアは認めるが、場所が宜しくない。錆びていたら、脆くなって刺さったまま折れる可能性だってあるのだから。

 「見つけました」

 「お、お手柄だ。こっちにくれ」

 女が言うので青年が下に放ってやると、酷い錆びだなという呟きの後に、小さな電子音が響いて何かが噛み合う音がした。鍵が開いたのだろう、その後にキャビンの扉が開かれるのが見えた。

 「ふむ、これはこれは」

 車の装甲越しに声が響く。女はキャビンの中を見て甚く感じ入っていた。板張りの床に戸棚を有したシステムキッチン。床に固定されている小洒落た棚にシャワーユニットもある。

 一人用だがベッドもちゃんとあるし、革張りの立派なソファーに硝子のローテーブルの組み合わせが女のセンスを擽った。確かに、見ているだけで度に出たくなる調度であった。

 「素晴らしいな……お?」

 楽しそうに目を輝かせながら室内を見回していると、天井に埋め込まれた天窓を見つける。天窓、とはいっても元から備えられた物ではないらしい。何ともお粗末な加工で窓枠が嵌め込まれた痕があった。本職の仕事ではなかろう。それに合わせて折り畳め、フックで天井に固定できる昇降用の梯子も添えられているが、スチール製で調度に見合った物ではない。どうやら夜空を観察したり、上に荷物を置くために無理矢理用意したのだろう。それに、梯子も無いのに天井に上ろうと思えば、こうでもしなければ面倒だ。

 女は梯子を下ろし、天窓を開けて青年を呼んだ。彼が降りてこなかったのは、女がこれを内側から開けてくれるのを待っていたからだ。

 矮躯で体重が50kgにも満たない青年が降りてきただけで梯子は軋みを上げる。確か、この車の持ち主である旅研の部長は相当に恰幅が良かったと思うのだが、どうやって上り下りしていたのであろうか。彼が上れば、間違い無くこの梯子は負荷に耐えかねて基部から脱落すると思うのだが。

 上から降りてきた青年も、中を見回して小さく声を零した。思っていたよりずっと立派な造りだったので関心しているのだろう。

 「これで住処には困らんだろうな。で、寝床だが……」

 「じゃあ先輩がソファーで寝て下さい」

 ニヤニヤと楽しそうに話し始める女を無視して青年は弓をベッドの上に放り投げてクロスボウのスリングを回転させて持ち替える。

 「……こういうのは普通、野郎がソファーでは?」

 「じゃあ、その長い足をどうやって、このエキストラベッド並に小さいベッドにねじ込むんで?」

 女は言葉につまり、ベッドを見てから自分の体を見下ろし、更にもう一度ベッドへと目をやった。

 キャビンに据えられたベッドは実に小さい。他の部分にスペースを取られてしまっており、ベッドサイドを抜いてマット部分だけなら170cmかそこらしかあるまい。160cmに満たない青年であれば、少し狭苦しいが十分眠れるも、しなやかに伸びる180cmの長身を誇る女では、足が相当にはみ出る事になろう。

 例え足を折り曲げたり、横向きで体を屈めても相当に寝づらい事は想像に難くなかった。なにせ、女の豊かな肢体では、寝返りなど到底打てないだろうからだ。

 一方、ソファーは四人は座れる割と立派な造りで、背もたれも倒せる造りで後ろに余裕も取られている。元々予備のベッドとしておかれていたのだろうが、これなら少しだけ狭いが女でも眠れるだろう。

 「……腑に落ちんなぁ」

 「別に私がソファーでも構いませんが。どっちでもスペースは十分なんで」

 素っ気なく応える青年に、女は眦を軽くつり上げながら小声で、短足め、と悪態を吐いた。しかし、青年は堪えた様子も無く、全体のバランスで見たら普通です、と言いながらキャビンから運転席へと移った。

 運転席は車幅に合わせて広々と取られている。座席も革張りで弾力は十分、長時間座っていてもストレスは少なそうだ。

 が、青年はハンドルの周りを見て小さく、本当に小さくではあるが舌打ちをした。

 「マニュアルか。まぁ、そうだろうな」

 青年の肩越しに顔を覗かせ、体重を預けて運転席を見に来た女が、さも面白そうに呟いた。

 女は知っていたのだ、青年が免許を取るときに、このオートマ全盛の時代にマニュアルで取って何か意味が? と言い訳しながらオートマチック限定の免許を取得していた事を。

 「馬鹿にしたものでもないよなぁ、マニュアルも。なぁ? 何か言ったらどうだ?」

 「じゃあ、今後運転は全部頼みますから」

 心の底から楽しそうに、かつ意地悪に言葉を投げかける女に、青年は無感動に応えるが、それなりの付き合いがある女は語感の端に滲んだ不愉快さを確かに感じ取っていた。

 「まぁ、そう不機嫌になるなよ。お前も動かせないと困るだろ、教えてやるから覚えろよ。無免がどうのこうのと言うマッポも居ない事だしな」

 ばしばしと背中を平手で殴打しつつ、女は実に愉快そうであった。三度目の殴打を受けた後で、青年は左肘を背後にねじ込んで女を退き剥がす。本来なら身長差で下腹部に肘鉄がめり込んでいた筈だが、女は体の初動を密着していたが故に感じ取り、肘が振り抜かれる前に体を背後に泳がせていた。

 今度は明確に聞こえるように舌打ちが響いた。どうにも鉄面皮な男だが、揺さぶってやると感情が露わになるので面白いと女は笑う。それでも、それを言葉にしたら更に激昂するだろうから心の中で思うだけだ。

 「さて、それじゃあ馬鹿やってないでさっさと移動するか。時間は今の所レートで言えば金塊よりも重いからな」

 笑顔を強めながら、指先に引っかけた車の鍵を女はチャラつかせた…………。










 あだだ、と情けない呻きを零しつつ、首を摩りながら女はロープを手繰る。場所は立て籠もっていた法学部の屋上だ。下に送り出す複合繊維製の頑強なロープにはボストンバッグが括り付けられていた。

 あの後、女が自動車部の車を使ってフェンスをぶち抜いてキャンピングカーが脱出する為の道を拓いたのだが、思っていたよりも頑丈だったせいで少し体を痛めてしまったのだ。

 道はしっかりできたし、今度は車が壊れて進路を防ぐなどという事はなかったのだが、四点固定のシートベルトをしていても少し衝撃が大きかったらしく、首が大きく後ろに反れたせいで軽く筋を痛めてしまった。むち打ち症とまではいかないが、それでも不愉快に痛む。

 そして、今は部室棟から失敬した使える物資や残っている食糧を下に降ろしている最中だ。一々階段を昇っていては効率が悪いので、法学部棟の建物にキャンピングカーをぴたっと止めて、ロープで車の屋根に立つ青年に荷物を降ろしている。

 「良い案だと思ったが、ちと調子に乗りすぎたか」

 ぼやきながら、荷物が出された空のボストンバッグを素早く手繰り上げる。段ボールなんぞを固定するのは大変なので、バッグはゴンドラ代わりだ。

 女は契約しているケーブルテレビで海外物のドラマをよく見ていて、少し憧れていたのだ、車で壁をぶち抜いて脱出するというシチュエーションに。ただ、あれは慣れたスタントマンがやっているから怪我無くこなせているだけで、鍛えているとはいえ素人の女では無傷とはいかない。大怪我をしなかっただけで御の字という所だろう。

 「……ま、最悪でも死ぬだけか」

 口の中に籠もる程度の声量で落ちた呟きは、良く笑う女に見合わず全く平坦な響きの物であった。しかし、今ここにはそれを聞く者は居ない。

 仮に死んだ所でそこまでだ、後に遺される人間の事を気遣う必要がどこにあろうか。死んだ後の事など、何も分からないというのに。それに、か弱い乙女ならまだしも、あの青年の事だ。例え自分がくたばったとしても、どうにかして図太く生き残るだろう。逆だったとしても、またしかりだが、と勝手な思考を巡らせる。

 荷物を詰め終え、後二回程度で終わるかと思いながら、女は懐のパッケージから煙草を取り出した。屋上で籠城していた五日間は残り少ない煙草をちまちま吸っていたので、その反動で喫煙数は飛躍的に増えていた。見つけた煙草は既に二本しか残っていなかった。残り二本の内の一本にライターで火を移しながら、器用に片手で荷物を下に送っていく。

 紫煙に喉と肺を焼かれ、巡る二酸化炭素のせいで脳の働きを鈍らせる退廃的な愛撫。陶酔するように煙草の香りに思考を没しながら、女は考える。これは、自分が望んでいたシチュエーションだと。

 別にロメロ映画の登場人物になりたかった訳では無い。だが、それでも今のシチュエーションは女が望んだ物だった。少なくとも、腐ったように笑いを造りながら生きているこの間まではずっと素晴らしい物だ。

 意図せず、口の端が喜悦につり上がった。素晴らしい、ただその言葉が頭に浮かんだ。今の状況を評するなら、その評価しかありえないと。

 ロープが数度引っ張られる。中身を全て出し終えた、という合図だ。女は手早くロープをたぐり寄せた。その時に煙草が揺れて灰が落ちるも、女は気にしないで更に紫煙を取り込んだ。軽く舌が痺れるような香味が心地よい。

 残った荷物を適当にねじ込み、他に捨て置かれる物が食い散らかした食糧の残骸や、良く考えたら不要だと判断した物だけになってから女はバックを下に送った。それ以外には、この身と担いだエアライフルだけだ。

 ふと、ロープをするする下に伸ばしながら、これ伝って降りたら楽かな? と考えたが、ドラマの真似をして酷い目にあったばかりなのだから止めようと考え直す。それに、今度こそ失敗したら死ぬだろう。流石に自分も一〇m以上の高さから落ちて生きていられるほど頑丈ではない。

 空になった、というサインが来たので、今度はロープを手繰らずに下へと放り投げた。一々ロープを回収して持っていくより、下で纏めさせた方が早い。

 痛っ!? というような声が聞こえた気がしたが、女は気にしないで燃え尽きかけた煙草を新しい物に変えつつ階段へと向かう。そして、市販の紙巻きは燃え尽きるのが早くていかんな、と不平を零しつつ、空のパッケージを投げ捨てた。

 階段を下りる最中、緩慢に防火壁を殴打する音が廊下の向こう側から聞こえてきた。中に立て籠もっていた連中ではなかろう、生きていたなら開けて出てきている筈だ。ならば、その音は最早扉を開けるだけの知性すら失った人間だった何かが立てる雑音に過ぎない。

 興味も無さそうに女は一階へと下りていき、助手席側の扉を開けてキャンピングカーに乗り込んだ。既に運転席には小柄な青年が何やらメモを見ながら座っていた。

 実はここまでは青年が運転していた。女が首が痛いから、道が広い内にとりあえず操作だけ覚えろと言ってやらせたのだ。既にオートマチックの免許を青年は持っているので、習得はそこまで苦労すまいと思ったからである。

 感覚さえ覚えればマニュアル操作は然程難しい事ではない。自転車と一緒で、慣れの問題でしかないのだ。

 何となく視界の端に入った青年の手は、紅く腫れていた。理由が何かは察するが、女は青年が何も言わないので謝罪はしなかった。向こうから詰ってきたら、冗談まじりに謝罪くらいはするかもしれないが。

 「それじゃ、行くか。操作間違えるなよー」

 「……はい」

 キーを捻ると車が低くうなり声を上げ始めた。巨体を前進させる高出力のエンジンが回り始め、その律動がシート越しに伝わる。

 覚束無い手つきで青年がクラッチとシフトレバーを操作し車を発進させた。トロトロと空色のキャンピングカーは広い道を進んでいく。音に惹かれて集まって来た亡者を避けながら。

 亡者は転々としかいない。少し前に上がった大きな音、駐車場のフェンスをぶち抜いた巨大な破砕音に惹かれて向こうに行ってしまっていたから、此方にやってくるのに時間がかかっているのだ。

 ゆっくり走る車は東側の門へと向かう。其方の方が車を出しやすいからだ。それに、一度寄って門を見てきたが、鍵が遺されていて手動でも開けられるようになっていたので、出るのも楽で良い。

 ふと、薬学部棟の近くを通り過ぎようとした時、声が聞こえたような気がした。

 「……上か?」

 女が呟いてパワーウィンドウを下げて身を乗り出し上方に視界を巡らせる。すると、薬学部棟の高い屋上から身を乗り出し、服を振りたくって声を上げている集団が見えた。

 自分達を同じく屋上に籠城して生き残っていた集団が居たようだ。なる程、考える事は誰でも大差ないらしい。

 青年も少しだけ窓を開け、そこから顔を覗かせて上を見ている。二人とも、必死に助けを求めて声を上げ続ける男女の姿をしっかり確認していた。数は見えているだけでも七名は居た。

 暫し互いに彼等を観察した後で、何も言わぬままに二人は車内に身を戻し前を見る。

 「行くか」

 「そうですね」

 そして、青年は一度止めた車を再出発させるため、再びアクセルを踏む。全く何も示し合わせる事も相談する事もなく、彼等は屋上の同輩を見捨てる事を決めた。理由は単純だ、足枷は必要ない、それに尽きる。生き残るのであれば、最低限の同行者以外は不要だと判断したのである。

 これが、同程度の物資を持って協力し合える相手なら話は別なのだが、相手は何も持っていないのでおんぶにだっこになるのは目に見えている。そして、このキャンピングカーには新たに七人も迎え入れるキャパシティは無い。なら、計算は単純だ。

 自分と見知らぬ他人、どちらの命が重いか。考えるまでもない安易な答えだ。

 何処までも冷徹な計算の後に車は走り始め……直後、間抜けな音を立てながら止まった。

 「おい」

 「すみません」

 何てことはない、操作をしくじってエンストしただけだ。青年は少し慌てながら操作して再び車を発進させる。

 助けを求める声を浴びながらも、今度は止まる事もなくキャンピングカーは走り去っていった…………。
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 大変長らくお待たせしました。それでもどっこい生きてます、私です。夏休みとは何だったのか、下準備やフィールドワークで休んだ覚えなど無いよマジで。そして就活の始まりです。速いこと終わらせないと……。

 多分次辺り少女の視点が入ります。更新は絶望的に遅くなると思いますが、今暫くお付き合い下さい。

 あ、それと感想と評価有り難う御座います、大変励みになっております。返信も訂正もできてませんが、訂正報告本当にありがとうございます、時間を見つけ次第順次修正と訂正を入れていきます……。それでは、できるだけ早く次を投稿できるよう頑張ります。

N2229BM-21
efjhno
討伐部隊(レイド)

 蟻の巣を見つけた二人はすぐにギルドへと報告した。予想よりも規模の大きい巣であったため、単独での殲滅は諦めたのである。

 ボスは、巣の形状から『ジャイアントスカイ』のものであると判断された。

 ジャイアントスカイは白銀の外殻を持つアントゴーレムほどのサイズの生体兵器である。その大きさこそジャイアントゴーレムに劣るものの、飛行能力を有している。蟻系唯一の弱点であった移動能力の低さを覆した強敵である。

 蟻の巣はかなり近い。街から南西に50キロほどいったところにあった。放置していれば規模は拡大され、いずれ討伐は困難になるだろう。気が付いた頃には街道が蟻に埋め尽くされていました、なんてことにもなりかねない。

 事態を重く見たギルドは早急に討伐隊を組むことを決定した。

 丙種以上の開拓者がすぐさまかき集められた。無論、発見者であるタクム達は強制参加だ。ちなみに、依頼が正式に発表される直前、アイはタクムに町中のガンショップや戦車屋から、ブバーバリー ベビー服
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ローニングM2に使用される12.7ミリライフル弾を買占めさせて、大儲けをしたのだが、それはまた別の話である。

「すごいな……まるで映画みたいだ」
 タクムはハッチから顔を出し、車両後部を眺めて言った。

 シーサペントを先頭にVの字型で巣へと直進する戦車の群れ。
 中型生体兵器でも戦えると判断される丙種開拓者は、戦車や高火力の装甲戦闘車などの大型戦闘車両を保有しており、総勢200名、40輌からなる戦闘車の群れは壮観そのものであった。

 全長10メートル、全幅3メートル超の巨体に踏みにじられ、荒野に巨大な砂煙が上がる。そんな車両群の中にあって、ミニバンくらいの大きさしかないちんまい戦車が先陣を切って走っている姿は逆に人々の注目を浴び、後に彼らが持ち帰ってくる戦果と共に注目を浚った。

『こちらセリエアー。敵拠点(ありのす)を発見、全車停止』
 オープン回線でそう指示を下したのは討伐隊の隊長を任せられているデル・ピエロッペンであった。部隊で唯一の甲種|開拓者団(パーティ)<セリエ・アール>のリーダであり、一輌編成(ソロ)で大型生体兵器を討伐したこともあるという古強者(ヴェテラン)中の古強者である。

 マイクロ戦車に変わり、パーティと同名の戦車<セリエ・アール>が先頭に立つ。討伐隊が駆る戦車のほとんどは第二次世界大戦以前のものを改修したものであるのに対し、セリエ・アールはOF-40という新型主力戦車をベースにしている。

 OF-40は1977年にイタリアのオート・メラーラ社とフィアット社が輸出向けに開発した主力戦車だ。

 高火力、高精度を誇る105ミリ戦車砲を主砲とし、副砲としてブローニングM2重機関銃を装備している。その組み合わせはポピュラーであるが、言い換えれば誰もがそうしてしまうくらいに信頼性が高いということである。また武装だけでなく車両自体にも高い機動性、踏破性が確保されている優良機といえた。

 元々優秀であった車両に対し、デル達<セリエ・アール>は潤沢な資金でもって魔改造を施している。装甲板の張替えや追加、武装の追加、駆動部をキャタピラから六本の多脚駆動式に換装しているため、ほとんどオリジナルの戦車である。

 105ミリ戦車砲こそそのままであるが、追加された副砲――ブローニングM2重機関銃が2門も搭載されているため対空砲としての運用も可能であり、そもそも強固な戦車装甲を更に強化しつつも、多脚化により不整地での移動性能と踏破性を向上させ、斜面への登攀力も高めている。

 操縦者も中々の腕前のようで、ローラースケートのように脚部を動かすことでスイスイと岩の隙間をすり抜け、障害物を多脚によって飛び越える。立体機動。これぞ多脚戦車の真骨頂である。

 そのスペックは超絶の一言に尽きた。恐らく戦車があと一台は買えるくらいの改修費用が掛かっただろう。

「まさにエースストライカーが駆るに相応しい戦車だな」
 そんな彼が率いるセリエ・アールが隊長機として指揮を振るうことはごく自然な成り行きであった。

『A隊は前進。これより、戦車戦を行う。B隊は巣の1キロ先で後方支援を、C隊はB隊の護衛だ。A隊の打ち漏らしを回収してくれ。以上だ』

 部隊はあらかじめ3つの隊に振り分けられており、A隊は戦車持ちや火力に優れた装甲戦闘車のみで固められている。B隊はMk19自動擲弾銃(グレネードマシンガン)などを配備した遠距離攻撃に向いた部隊、C隊はその他の雑事を担う。つまり、みそっかすである。当然、タクムはC隊であった。

「くそ、これじゃあ大型倒せないじゃないか」
 砂煙を上げながら前進するA隊を見送りながらタクムがぼやく。

『討伐隊(レイド)を組んでいるから大型を倒したっていう実績はボク達の元にも入ってくるからその心配はいらないけど……隊長機ばかりか副長機まで前線に出張っちゃって、ほんとにだいじょぶかな……』
 アイが心配そうに言った。

 ちなみに討伐隊は隊長機と副長機がやられると自動的に解除される。つまり部隊は壊滅とみなされるのだ。現実問題として、指揮官の消えた戦車隊など大型や特型生体兵器にとって烏合の衆でしかなく、この二輌にもしものことがあったら、討伐隊は間違いなく壊走するだろう。

 しばらくするとタクムが除いたスコープにも蟻の巣――コンクリート素材で作られたらしき、蟻塚が確認できた。蟻共も前線戦車の存在に気付いたらしく、蜂の巣を突いたかのように蟻が飛び出してくる。

『野郎共! 戦闘開始だ!!』
 デルの合図でA隊戦車の戦車砲が一斉に放たれ、後方から無数の迫撃砲が射出される。

 乾いた荒野に鋼鉄の匂いと火薬の音が満ちていく。
 ここは既にして<戦場>の空気に染まっていた。


N0771E-51
efjhno
第二部 1.出口のない森−3

 小城にいると、気分がすさむ。
 ゴーティスの苛立ちの元凶はカサンドラだ。王妃であり、彼の妻。
 王城にいれば日々に忙殺され、注意も散漫となれるのに、ここでは、ゴーティスはカサンドラに向き合わざるをえない。彼女は常に夫に従順だ。腹の中にたまった不安や不満を決して表さず、あくまで貞淑な妻として、ひたむきにそこにいる。夫が他の女と消えようが、冷淡な態度をとられようが、彼女は動じないふりをする。傷ついた心を抱えながら、そのくせ次の瞬間には、夫の翻意を期待して、彼女は潤んだ瞳を彼に向けるのだ。
(あんな目で見るならば、文句の一つでも言えばよい。ジェニーのように)
 カサンドラの一挙手一投足がジェニーと対比され、妻への鬱陶しさがつのる。
 ジェニーを彷彿させなかったら、彼女の存在はゴーティスにとって取るに足らないものだ。結婚など契約の一つなだけ、それ以上でもそれ以下でもない。けれども、未熟な少女であるカサンドラは、国同士の提携の上に成り立つ結婚に、情を交えようとする。ジェニーとは反対に、彼を恐れながらも、愛そうとする。
 日を追うごとに、妻への煩わしさが、殺意にじわじわと形を変えていく。ゴーティスは平常心を保つのに必死だ。底なし沼の淵にたぐり寄せられている。沼につま先が触れてしまう日が迫っている。
 ゴーティスは王城に早く帰りたかった。人込みの中で、彼女をその他大勢のうちの一人に変えてしまいたい。
(フィリップの妻のよニューバランス 1700
ニューバランス m1300
ニューバランス 1400
うに、物欲と性欲を満たせばよいのなら、この結婚はもっとうまくいくだろうに)
 この二日間、ゴーティスは妻とまともに顔を合わせていない。昨夜にいたっては、彼女の待つ寝室にも戻らなかった。

 王城からは、ヴィスコンデールの街を遠くに望むことができる。山も森も川も一通りあるが、ここの景色や空気は、故郷のそれとはやはり異なっている。全てが新鮮だ。標高の高い山脈が視線の彼方にどっかりと腰をおろし、その山頂は万年雪をたたえている。森の木々は天につき抜けるように立ち、緑が果てしなく濃い。首都より北方に位置する土地のせいか、空気が澄んでいて、鋭い。
 ゴーティスは馬を走らせながら、気分が次第に高揚していくのがわかった。
 目指していた平原は、思いのほか、遠かった。一面にひろがる森の存在が、人々の距離感を奪っていたらしい。目的の平原に到達するには、この気味の悪い “北の森”を抜けて行くほかはない。
 ゴーティスと護衛たちは、鬱蒼とした、暗い森の中に入った。ところが、いったん中に入ってみると、森は予想外に手入れがよく行き届いていた。木々は適宜に間引きされていて、馬車が通れるほどの道が確保されている。明るい日光は木々の間をすり抜け、地面にまで届いている。朝方の雨でぬかるんだ地面には、まだ新しい何頭かの蹄の跡が残っていた。森のうす気味悪い外観から予想されるほど、そこは人間を寄せつけない雰囲気ではない。
 湿った風が耳にふれ、ゴーティスはふと、カサンドラ付きの衛兵の顔を思い出した。人見知りの彼女が心を許す、数少ない人間の一人だ。
 今朝、ゴーティスが外出する際に妻のいるらしい部屋の前を通り過ぎると、その衛兵が一瞬だけ目を強め、ゴーティスを一瞥した。衛兵の目には悪意があった。ゴーティスが、衛兵にとっては主人である王妃を冷遇するのを快く思っていないのだろう。衛兵は、見た目だけでいえば王妃と同じくらいの年齢で、その若さゆえに感情の抑制がきかないらしい。
 とはいえ、その衛兵はヴィレールの近衛兵であり、本来の主人は王であるゴーティスだ。気に染まぬからとの理由で主人を睨むなど、どうやっても許される行為ではない。しかし、ゴーティスは文句も言わず、彼の前を素通りした。
(ジェラールといい、衛兵といい、恋にかまけていい身分ではないか)
 二人の、熱にうなされたような視線を思うと、口の中にざらりとした苦味がかすかに混ざる。その種の視線が自分に注がれることを、ゴーティスはどれほどジェニーに求めていたことか。
 ゴーティスは、恋する対象がこの世に存在する二人が羨ましかった。実体のない骸(むくろ)を心に抱き続け、過去に恋を置き去りにした彼自身とは大きな違いだ。
(あの女は……いつになったら、ここから去ってくれよう?)
 恋というには重過ぎる、苦い古傷をかばうように、ゴーティスは片手で胸をゆっくりと押した。
 
 頬にぶつかる湿り気のある外気は、彼の目に飛び込んでくる世界を、たちまち、違う風景にと変えていく。髪の中を抜けていく森の空気が、ゴーティスにあの忘れられない夏の日をよみがえらせる。ゴーティスは馬を煽って速度を上げ、方向転換をして、木立の中へ走り入った。
 行く手にある景色が、彼女を追って山に入ったときの木立が、互いに溶け合っていく。くらくらと目眩がした。虚勢を張った心に、風穴が開く。幻影と現実のはざまに、体が吸い込まれていく。
 ゴーティスは奥歯を噛んで、過去に必死で抵抗した。次から次へと頭に流入してくる想いに心を乱され、体が今にも破裂しそうだ。追ってくる護衛たちが口々に何かを叫んだが、馬の操縦に集中していなければ、ゴーティスは、すぐにでも発狂してしまうだろう。
 ゴーティスは何も考えたくなかった。何も心に侵入させたくなかった。だが、何を見ても、何を感じても、全てがジェニーに結びついてしまう。
 思い出さずにいるにはどうすればいい?
 この苦痛を、どう乗り越えればいい?
 ゴーティスが欲しいのは、確固とした答えだ。過去を切り離してくれる、救いの手だ。

 運悪く、その日のゴーティスには、サンジェルマンもライアンも同行していなかった。ゴーティスが快適な日々を過ごしていると安心し、二人ともが揃って、別件でラニス公の居城に出かけていた。二人のうちのどちらかがいれば、ゴーティスの暴走を止められたのだが。
 ゴーティスは、実際にはそこに在りはしない川を目指していた。追いすがる護衛たちの声が風の叫びに同化する。視界の先にある風が、幾重もの声となってゴーティスを呼び寄せる。ゴーティスは馬を駆り立てた。
 もっと早く、もっと急げば、今度こそジェニーの手を逃さずにすむ。ライアンに地面に倒される前に、彼女の手を掴まなければ……。
「ああっ……わああああっ……!」
 突如、耳をつんざくほどの獣のような鳴き声が辺りに響き渡り、ゴーティスは我に返った。ゴーティスの見ていた山の斜面が風の中にかき消され、周囲の景色が急に迫ってくる。
 ジェニーとケインを追う近衛兵の姿が、消えた。ゴーティスの全てが、この場の現実に戻っていく。あのときと違って、ゴーティスが今乗っている馬は黒い。木々の色も、空気の温度も、あの日とは別ものだ。崖の前に立つジェニーは、もういない。
 ゴーティスが冷静に返って手綱を引くと、馬が停止したのと前後して、近衛兵が一人、息せききって隣に馬をつけた。
「王!」
 男はゴーティスを見て、ほっとしたように白い歯を出して微笑んだ。ここ半年の間に彼の担当となった、新入りの護衛だ。現実が、ゴーティスに追いついた。
「ご無事ですか、王?」
 胸の動悸はまだ安定しない。だが、知人に似た笑い方をする近衛兵を目にすると、ゴーティスの追い続けた過去の遺物たちが、遠くへ遠くへと流されながら、波間に消えていく。
「……無事だ」
 幻から解き放たれ、小さな落胆を感じてはいたが、ゴーティスは胸をなでおろした。
 そして、間髪入れず、また、野太い悲鳴がゴーティスの耳に届いた。今度ははっきりと聞き分けられる。
 人間の男の声だ。
 
  ◇  ◇

 夜明け前まで降り続いていた小雨のせいで、朝一番の空気はしっとりと濡れていた。館の裏にある林は、辺りにたちこめる真っ白い靄に埋まって、その上にあるべき空との境界線が見えない。どんよりと重い空は、いつ再び雨を落とそうかと意地悪く笑っているようで、朝が訪れたというのに、すでに一日の終わりを告げる日の弱さだ。山や森と近接するこの地方は、一日のうちで何回も、天気が気まぐれに変わる。
 モーリスは敷地内に留まっているマリーを案じ、せめて午前中だけでも天気がもってくれればよいが、と、好き勝手に動く灰色の暗雲をうらめしく眺めた。王夫妻のラニス公訪問に伴い、モーリスの農園では使用人たちの外出が規制されている。緊急な用件でなければ各自の家から離れないように、というラニス公直々のお達しだ。モーリスは使用人全員と、特にマリーに対しては厳しく、その命令を守るように言い含めてあった。
 マリーは気立てがよく、皆を退屈させない娘だ。貴族の女にありがちな高慢さが微塵もない。ラニス公ことフィリップと彼の弟ジェラールは、両名とも、片田舎の貴族の末裔だという彼女に執心だ。人付き合いを敬遠したがるジェラールが、何かと些細な用事を見つけては、月に一度の割合でモーリスの農園にやって来る。彼がマリーを慕っていることは、その態度から一目瞭然だ。ただし、臆病な彼は、本人にその気持ちを伝えていない。
 そして、彼の数倍以上に多忙なはずのフィリップは、弟を上回る頻度でモーリス宅に顔を見せる。その訪問の半分以上は彼女と会う目的といえるだろうが、弟と恋の火花を散らすような関係にあるかというと、それはモーリスにも断定できない。フィリップが彼女に接する態度には、敬愛が多分に込められている。
 モーリスは、自分の娘ほどの年かさであるマリーを、とても可愛がっていた。

 ヴィレール王夫妻の滞在もあと三日。ここまでの四日間は、一日が過ぎるたび、次の日はいつも前日より長く感じられていた。
 別棟の戸口に立ったモーリスは、ついさっきドゥーヴルから預かったチェス盤を持ち直し、扉を押し開けた。焼けすぎたパンの香りが鼻につく。奥では、使用人の女たちが大笑いし、賑やかにしゃべっている。彼女たちも、以前とはすっかり様変わりして明るくなった。それもこれも、マリーが来たおかげだ。
 モーリスが廊下をたどっていると、「おはようございます、旦那様」と、服の裾で両手を拭きつつ、使用人の女が出てきた。
「おはよう」
「今朝は肌寒いですわねえ。旦那様、マリー様をお探しですか?」
「ああ。いるかね?」
「マリー様でしたら、子馬の具合が良くないとかで、先ほど馬舎に行かれましたよ」
「おやおや、またか。彼女は、馬が本当に好きなのだね」
「ええ、ほんとに。乗馬もお得意なようですからねえ」
 マリーの話題が出ると、誰もが嬉しそうに笑う。
「よかった、彼女はそれほど退屈していないのだな」
「ええ。カミーユ様もいらっしゃいますもの」
 女が目を細め、階上へ続く階段の方に振り向いた。
「そうだな。では、私もカミーユと会ってくるとしようか」
 女が満面の笑みでモーリスに言った。
「上にいらっしゃいますよ。外で遊べないジャンヌたちもカミーユ様に会いに来ています。後でお茶をお持ちいたしますわ、旦那様」
 そう言って、丸い顔をさらに丸くして笑顔になると、彼女は奥へと戻っていった。
 モーリスが階上へと向かう階段を数段のぼると、今度は子どもたちの騒ぐ甲高い声が聞こえてきた。ジャンヌの声もそれに混じっている。天気が悪いと、使用人の子どもたちは皆、この別棟の二階に集まるのが習慣化している。二階は、マリーが日常を過ごす部屋だ。
 階段の半分を上がったところで、モーリスは階下から大声で呼ばれた。
「旦那様! 旦那様、こちらにおいでですか!」
 聞き慣れた下男の声だ。彼がモーリスを呼びに来たということは、急な来客でもあったか、誰かが怪我でもしたか、どちらかだ。
 モーリスは階上に行きかけた気持ちを戻して、仕方なく元来た道を戻る。玄関扉の前に、下男がそわそわと落ち着かない様子で立っていた。
「どうした?」
「お客人がお見えになっております、旦那様。初めてお会いする方ですが、ラニス公から緊急のご使者だそうで」
 この時間帯にモーリス宅に到着するには、ラニス公居城を夜明け前に発つ必要がある。そして、ラニス公からの緊急の知らせは、これまでのモーリスの人生でたった一回きり、前ラニス公の訃報だけだ。
 何か、一刻を争う変事があったのか。モーリスの胸が、意図せぬ衝撃で急に冷えた。

 再び降り始めた雨の中、小さな平屋建てのドゥーヴル宅に着いたモーリスは、体に付いた雨の雫を軒先で軽く払い落とすと、戸口を小さくたたいた。すると、扉の内側からは何の反応もなかったが、同じ壁面にある小さな四角形の窓に人の動く気配を感じた。誰かが、来訪者の彼の姿を確認しているのだ。
 彼は戸を再度たたき、扉越しに自分の名を告げた。今度は、そこに人の吐息が感じられた。
「モーリスだ、ドゥーヴル。私一人だ。ここを開けてくれ」
 もう一度言うと、躊躇するような一瞬の間の後、戸が細く内側に開けられ、中から彼のよく見知ったドゥーヴルの顔が現れた。モーリスを見て、彼が緊張を解く。
「旦那様……!」
 彼に二の句をつがせず、モーリスは開けられた戸と壁の隙間をするりと通って、中に入った。そして、急いで後ろ手に戸を閉め、用心深く鍵をかける。それからやっと、息を潜めて彼を見ていた他の家族たちの視線にぶつかった。彼の妻、息子二人、娘二人、そして、マリー。マリーの無事な姿を確認するなり、モーリスは長い安堵の息を吐いた。
「一体何があったんです、モーリス様?」
 事態を把握していないマリーが、彼を心配そうに気遣い、近づいてきた。ドゥーヴルの妻が水差しを手に、彼女の横に優しく寄り添っている。
「詳しく説明している時間はないが――」
 モーリスは水をもらい、一息でそれを飲み干した。それまで気づいていなかったが、緊張のあまり、喉が干からびるほどに乾いていた。
「モーリス様、私の事で何か、ご面倒をおかけしているんですね?」
 一同を代表してマリーがそう口にすると、彼は目をつぶって天井を仰いだ。
「モーリス様。どうか、何があったのかお話しください」
 人の心にまっすぐに入ってくるような彼女の瞳に、モーリスはとても抗えない。ドゥーヴル家族も不安そうに、心配そうに事の行方を見守っている。モーリスはマリーの茶色の瞳に再び出会い、彼女が微笑むのを見てから、口を開いた。
「……理由ははっきりとはわからないが……マリーの身が狙われている」
 一同に緊張が走った。
 しかし、マリー本人がそれほど驚いていなかったように見えたのは、モーリスの気のせいだろうか?
「さっき、ラニス公の名を語る使者が来て、彼女を引き渡すように言われた。しかし、どうもおかしいところがあってね。用心のため、彼女の代わりに、マリアンヌを差し出したのだよ。彼らはなんら疑わず、マリアンヌを連れて帰っていった」
 マリーが、困惑したように視線を揺らしている。
「取り急ぎ、ラニス公には知らせを走らせた。今日か、遅くとも明日中にはラニス公の使者が来られるだろう。だが、それまでの間は、我々だけで……彼女を危険から守らねばならない」
 一同は黙って彼を見つめていた。彼自身と一同の緊張をほぐすため、彼はぎこちなく笑い、一人一人の顔を順番に見ていく。最後にマリーを見ると、彼女は怒りのような強い光を瞳に宿らせ、彼をまっすぐに見つめ返した。
「当分は、彼女には本宅に居てもらおうと思う。執事には、男たちを何人か配備させるように伝えてある。おまえたちも、他の者たちと共同で辺りに気を配っておいておくれ。いいね?」
「もちろんです、旦那様」
 ドゥーヴルの妻が何度も首を縦に振る。その手は、マリーの手に力強く握られていた。マリーは青ざめてはいたが、あまり動揺してはいないようだ。
「モーリス様、あの、カミーユは今、どこに……?」
 けれども、カミーユに話が及ぶと、マリーの顔は不安そうに変わる。モーリスは彼女に必要以上の動揺を引き起こさないよう、言葉を慎重に選んで切り出した。
「彼女は……アントン家に一時期だけ預かってもらうようにした。マリー、心配なのはわかっているよ。しかし、カミーユが一緒では目立ってしまう、それはわかるだろう? 運のよいことに、相手は彼女の存在を知らない。アントン家にいれば、彼女はそこの一員だとみなされるだろう。この状況下では、きみとは別々に居た方が安全だ。私だってこの選択は辛いが……マリー、わかってくれるだろうね?」
 マリーが納得して頷くまでに数十秒が過ぎた。彼女にとっては受け入れ難い、耐え難い選択だろうが、たぶん、他に良い方法はない。モーリスがここに来るまでにも、再三考えたのだ。彼女もそれを最後には理解したのだろう。
「カミーユを……お願いします、モーリス様」
 モーリスは、彼女が泣きわめく種類の女でないことを感謝した。

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背負ってくれている。
そうした思いが交錯したからだった。

「で、笠野さんが源ちゃんに会いたいって来てるわよ。そのつもりで入ってきてね。」
美由紀が小声でそう告げてくる。

「ええっ! こ、こんなに早くですか?」
源次郎は、わざとらしく時計を見た。


(つづく)




第2話 夢は屯(たむろ)する (その1180)

美由紀に迎え入れられるようにして中に入った源次郎だった。
そう、いつもとは逆である。

源次郎は、真っ先に周囲を見渡す。
と言っても、それほどには広くない事務所である。
ましてや、笠野が座っているであろう場所はほぼ想像が付いていたから、自ずと視線はその方向に向く。

「おはようございます。」
そう言って突然に目の前に現れたのが笠野だった。
そう、大日本興行株式会社の営業部長さんである。
どうやら、源次郎が入ってくるのをそこで待ち構えていたようだった。

「ああ???、お、おはようございます。それにしても???、お早い???。」
源次郎は皮肉を言ったつもりだった。
近いうちに接触してくるだろうとは思っていたのだが、事前の連絡もなしに突然に、しかも、舞台の1回目の幕が上がるか上がらないかの時間にやってくるとは???。
そうした思いがあったからでもある。

「昨夜、ホテルの方にお電話をさせていただいたんですが、お留守だったもので??。」
笠野はそう言い訳をしてくる。
さすがは長年営業畑を歩いてきた人間である。
相手の表情ひとつ、言葉ひとつで、今何を思っているかが読めるらしい。
もちろん、昨夜、ホテルに電話をしたのは事実だろう。
嘘を言えば、後々マズイことになるのは百も承知の筈だ。

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、何とも言いようが無いのだ。

「やっぱりねぇ???。」
「ん? な、何がです?」

「私の眼に狂いは無かったってこと???。」
「で、でも???、これって???。」

「良いのよ。深く考えないで???。私が勝手にしたことなんだから???。」
「??????。」
「で、ここに座って。」
美由紀が源次郎を化粧台の前に座らせる。
もちろん、源次郎は言われるがままだ。

「この匂い、嫌い?」
座ると、美由紀はいきなり鼻先に化粧壜のようなものを突きつけてくる。

「べ、別に???。」
一瞬にだが、柑橘系の甘い匂いが源次郎の鼻をくすぐった。
嫌いな匂いではない。

「これね、今ヴィトン
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、流行なんだって???。若い男性の間で???。」
そう言ったかと思うと、美由紀はいきなりそれを源次郎の頭に振り掛ける。

「ええっ!」
「これ、ヘアリキッドよ。」
美由紀は、そう言ったかと思うと、その手で源次郎の頭髪を弄り始めた。


(つづく)



第2話 夢は屯(たむろ)する (その1026)

慣れた手つきである。
まるで、散髪屋のお姉ちゃんの手つきだ。

ああも、すうもない。
源次郎は、あっと言う間にその頭を美由紀に乗っ取られる。

「ど、どう?」
「あ、はい???、気持が良いです???。」
「そ、そうじゃあ、なくって???。」
「ん?」
「この整髪料の感じってこと???。」
「ああ、そういうこと? とても良いです。何か、頭がすっきりしそうで???。」
「うふっ! ???。」
美由紀は、それ以上、言葉を続けては来なかった。

美由紀は、本当にこうしたことに慣れているようだった。
ヘアリキッドをすり込んだと思うと、今度は柔らか目のブラシを使って源次郎の髪型を

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ステージ上のサングラスを身に着けている愛

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第二十二話 主天その二十

 三条の、爪と同じ数だけの血が噴き出す。肩には同じ数だけの切り裂かれた傷が生じた。
「影を切り裂いてか」
「俺は貴様を切ることはできない」
 魔物はその噴き出す血を見ながら述べてみせた。
「だが。影を切ることはできる」
「影をか」
「そうだ。影は魂でもある」
 こう言うのである。
「その影を切ればだ。貴様自身も切り裂かれたことになる」
「話は聞いたことがある」
 ここで一旦後ろに下がりそのうえで言う死神だった。
「影を切り裂く魔物の話はな」
「ほう。俺も有名になったものだ」
「それが貴様だったか」
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 あらためて魔物を見据えるのであった。
「貴様がその魔物だったか」
「そういうことだ。それこそが俺だ」
 その嘴になった歯のない口で笑ってみせていた。嘴が歪に歪んでいる。
「俺がその魔物だったのか」
「今それがわかった。しかしだ」
「しかし。何だ?」
「私もまた影を操ることができる」
 構えは解いていなかった。そのままであった。
「私もな」
「それは知っているが」
「貴様が影を襲うことができるならば」
 魔物の言葉を受けたうえでさらに言うのであった。
「私はこうしたことができるのだ」
「むっ!?」
「見るのだ」
 その言葉と共にであった。彼の影か財布 女性 人気ら無数の影が出て来た。それが一斉に魔物に対して襲い掛かって来たのであった。
「影がだと!?」
「さあ、これならどうするか」
 己はそのまま元の場所に立ったままであった。
「この無数の影達に対しては」
「簡単な話だ」
 魔物はその無数の影達を見ても動じてはいなかった。
「的が一つでなくなっただけだ」
「そう思うのか」
「そうだ。ただそれだけのことだ」
 言いながら今鎌を手に迫ってきた影の一つを切り裂いた。
 手応えは確かにあった。その影を確かに切り裂いた。しかしであった。
「むっ!?」
「言っておくが私は分け身も使える」
 こう言うのだった。
「私自身だけでなく影達もな」
「そうか。影にそれを使ったのだな」
「これでわかったな。そしてだ」
 彼はさらに言うのだった。
「この影達も攻撃を繰り出すことができるのだ」
「それで俺様を斬るつもりだな」
「その通りだ。さあどうするか」
 影達に囲まれながらの言葉であった。
「私の影達に対して」
「ふん。俺様を甘く見ないことだ」
 その爪を禍々しく輝かせながら臆するところはなかった。
「影達がどれだけいようともだ」
 今来た二つの影も切り裂く。すると影達はすぐに消え去った。
 しかしすぐにまた影が来た。それも切り裂く。しかしその影も消え去るばかりだった。
 それでもだった。魔物は臆していなかった。その影達を切りながらも一つ目を動かしていた。まるで何かを探し出すようにしてだ。
「貴様の影は必ずある。それならばだ」
「何時か必ず倒せるというのだな」
「そしてだ」
 彼はさらに言う。
「貴様自身も切ることができるというのはわかっているか」
「無論だ」
 死神は今の魔物の言葉も受けた。
「その様なことはな」
「わかっているならいい。それならだ」
 魔物の方から動いた。その腕を斜め上から繰り出す。
 右が来て次に左であった。だが彼が今切り裂いたものは空であった。切り裂かれた筈の死神はその姿を消し去ってしまったのだった。まるで影の様に。
「むっ、消えたか」
「こうしたこともできる」
 死神の声だけが聞こえた。

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第二十一話 一喝その六

「疑う筈もない。そして」
「そして?」
「謀叛の元もわかっておる」
 それ自体もだ。わかっていると話すのであった。
「あの男。今は何処におる」
「津々木のことでございますか」
「そうよ。何処におるのだ」
 信長が弟に問うのはこのことであった。
「申してみよ。何処におる」
「それは」
 信行はまた口ごもってしまった。必死に周りを見回す。しかしであった。それまでは常に傍にいたのにだ。今はなのだった。
「一体何処に」
「殿、探しましたが」
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「何処にもおりません」
「軍の何処にもです」
 ここでだった。柴田と林兄弟が出て来てだ。そのうえで信長に対して答えたのであった。
「あの男、何処にもです」
「まるで煙の様に消えました」
「どれだけ探してもです」
「そうか、やはりな」
 信長は彼等の話を聞いてまた述べた。
「そうではないかと思っておったわ」
「権六達はそれでは」
「そうよ。あえてそなた、いやあの男を動かす為によ」
 それが狙いだったというのである。
「それでよ」
「私につけたのですか」
「そなた自身は兵を持ってはおらん」
 信行は確かに信長の弟であり政において辣腕を振るっている。しかし兵を持っているのは信長でありだ。彼は一兵も持ってはいないのである。
「だからよ。権六達に兵を授けそなたにつけたのだ」miumiu メンズ
「やはりそうでしたか」
「その程度は察しておったな」
「はい」
 まさにその通りだというのであった。
「確かにあの男を常に傍に置いていましたが」
「わからぬ筈がないことよの」
 信行ならばと。言外に述べていた。
「それでだな。権六達を後ろに置いたのは」
「あの男に言われてです」
 それでだと。信長に話すのだった。
「思えばそれもです」
「断らなかったのが今思えば不思議であろう」
「全くです」
「何もかもがおかしなことよ」
 信長の言葉がいぶかしむものになっていた。
「そなたは明らかにだ」
「操られていたというのですね」
「狐や狸どころではない」
 俗に化かすと言われている生き物である。
「あの者。尋常ではないな」
「まさかです」 
 ここでだ。佐久間が出て来て話す。柴田達と共に織田家に古くから仕えている彼がだ。
「勘十郎様を狙うとは」
「思えば当然のことよ」
 信長は佐久間のその言葉を受けてまた述べた。
「これもだ」
「当然ですか」
「謀叛は親族の中でこそ最もよく起こる」
 これは戦国だけではない。古来よりである。それこそ天智帝、いや神話の頃からだ。そうした話は本朝においても枚挙に暇がなかった。
「だからよ。あ奴はそれでじゃ」
「勘十郎様に近付き」
「そのうえで」
 佐久間だけでなく林も言う。
「仕組んできましたか」
「そういうことでしたか」
「あの者、捕らえよ」
 信長の言葉は厳しいものになった。
「そのうえで首を刎ねよ」
「はっ、それでは」
「すぐに」
 柴田と佐久間がすぐに応えた。
「尾張中を見張り」
「そうしてですね」
「本来なら罪人一人見つけるのはたやすい」
 信長が言い切るのには根拠があった。尾張は信長が罪人は何処までも追いそのうえで処罰することを信条としておりだ。その治安は極めていいのである。

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第十五話 異装その十一

 猿の面を斜めに被って顔を出している男だ。毛皮を着てそのまま猿になりきっている。仕草も猿そのままにしているその男を見ていたのだ。
 そのうえでだ。彼は言った。
「あの猿面冠者ですが」
「あの猿そっくりの者か」
「あの者、身体は小さいですが」
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「いえ、おそらく刀も槍も不得手です」
 そのことはすぐに見抜いていたことだった。
「弓も鉄砲も間違いなく」
「下手だな」
「武芸そのものは不得手でしょう」
「そうですね」
 竹中も明智のその言葉に頷く。
「実際馬に乗っていますがそれも」
「不自然だな」
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 不破は一言だった。
「どう見ても慣れてはおらんな」
「はい、間違いなく」
「武芸はできませぬ」
 また言う明智であった。
「しかし。武芸だけではありませぬから」
「他のことがだな」
「かなりのものかと」
 道三にも話す。
「あの者、これからかなりの者になるでしょう」
「その様な男も婿殿のところにはいるか」
「あくまで。家臣の一人として」
「ふふふ、面白いのう」
 ここで楽しげに笑った道三だった。
「それではだ」
「はい」
「それでは」
「いよいよその婿殿だ」
 他ならぬ信長について言う。
「来るぞ」
「そうですね。その織田殿ですが」
 竹中が考える顔になって主に話す。
「どうした格好で来られるかは」
「わからぬか」
「どうも。読めませぬ」
 こう言うのである。
「それについてはです」
「御主でもそうなのか」
「何か突拍子もないことは考えておられるでしょう」
 それはわかるというのだ。
「ですが。具体的に何をしてこられるかといいますと」
「そうであろうな」
 道三は竹中の言葉にまたしても楽しげな笑みを浮かべるのだった。
「それは」
「不思議ではありませんか」
「そうだ、不思議ではない」
「それはまた何故」
「これは知恵や知識でわかるものではない」
 竹中のその深い智に満ちた目を見て話す。
「そうしたものではないのだ」
「といいますと」
「感じるものだ」
「感じるものですか」
「そうだ、それでわかるものだ」
 その織田の家臣達の後ろを見ながらの言葉だった。
「それでな」
「感じる、ですか」
「知識や知恵も必要だがそれに加えてだ」
「感じることなのですか」
「それでわかる。我が婿殿がどういった格好で来るかはな。そして」
 さらに言った。
「何を考えているのかもだ」
「それもですか」
「感じてわかるものなのだ」
「ううむ、それは」
「それも生きていればわかる」
 まだ若い竹中を見て。道三は彼に告げたのだった。

N7632B-844
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カカの天下844「おひさしぶり?」

 こんにちは、トメです。

 今日の仕事も終わり、「あー疲れた」といつも通りに呟きながら寄った商店街。

 夕飯の買い物をしていたときに声をかけられてしまいました。

「よ、トメ!」

 こんな感じです。

 男です。

「ん、どうしたトメ」
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 馴れ馴れしいこいつは、いったい誰でしょう?

 それが実は……

 僕にもわからんのです。

「誰だおまえ」

「はぁ!? おい、俺がわかんないのかよ!」

「僕の記憶の限り、おまえのようなキャラが登場したことはない」

「登場? 変な言い方するんだな」

 そこは気にしたらダメだ。

「ともかく! おぅトメ、随分と薄情じゃないか。俺とおまえはあんなに仲良くしてたっていうのに」

「誤解を招く表現はやめろ。さてはmiumiu 財布 一覧おまえホモだな? 新手の勧誘だろ」

「……トメ。それ、もし友達に言われたらどうする?」

 キリヤに言われたところを想像してみる。

「ぶっころす」

「じゃあ俺の心境も理解してくれるよな?」

「ん? あぁ、図星だからガッカリしてるのか。残念だったなホモ」

「ぜんっぜん違うわ!! おまえ話を聞いてないだろ! まさに現在、友達に言われてるんだよ俺は!」

「お気の毒に」

「他人事じゃなぁい!!」

 ふむ、どうやら冗談抜きでこの男は僕の友達(と言い張る)らしい。

「じゃあとりあえず名前を言ってみろ」

 さすがにそれ聞けば思い出すだろ。

「よし、言ってやる。俺の名前は○○だ」

「ん? ごめん、よく聞こえない」

「だから○○だっての」

「なんでそんなに声が小さいんだよ。もう一回!」

「ハッキリ言ってるだろ! ○○だよ! ○○!!」

 やっぱり聞こえない。

「……くっそぅ、昔からそうだよオマエらは……人の名前を聞きやしねぇ。あーもうわかった! こう言えばいいんだろ!? 友人Aだよ友人A! 小学校から高校から大学までずーっと友人Aと呼ばれてる男だよ俺は! たまに先輩Aとか後輩Aとか通りすがりAとかにもなるんだぞ恐れ入ったかバカヤロウ!!」

 あああああああ! 思い出した! そうだ、去年にユカとのゴタゴタで思い出したこともあったっけ。

「てっきり思い出話を補完するために生まれたキャラだと思ってたんだけどな。実在したとは」

「おまえは何を言ってるんだ?」

「や、こっちの話。はー、しかし友人Aかぁ。ほんと久しぶりだな。高校卒業以来か」

「そうだな……はぁ、名前を覚えてもらえないのは慣れてるけど、ほんとーにどいつもこいつも」

 仕方ないだろ、なんか覚えにくいし聞こえにくいんだよおまえの名前。容姿もとことん普通だし、なんとかAっていうのが似合いすぎなんだよ。

「でも誓って犯人Aと被告Aにだけはならないからな!」

 そんな平凡な彼だが、なにやら野望はあるらしい。

「俺の夢だ」

 むしろ夢らしい。なんか哀しい。

「……あ、そっか。いつぞやユカと知らない男が喋ってたとか聞いたけど、もしかしておまえのことか」

「ん、ああ。ユカちゃんね。偶然会っちゃってさ、ついつい声かけちゃったのよ」

「つい、ねぇ」

「だってよぉ、高校のときはあんなにおとなしい黒髪っ子だったのに、バリバリの金髪娘になってんだぜ? そりゃビックリして声もかけちゃうよ」

 よくわからん理由だが、確かにあれは僕もビックリした。

「性格もずいぶんと変わってたろ」

「ああ、すごく大人になってた。おとなしいながらも強くなったとゆーか」

 ……さてはユカのやつ、猫かぶってやがったな。もしくは僕と同じく友人Aのことを思い出せず、でも言い出せず適当に外行きの顔で通したか。

「あとお姉さんにも会ったぞ。随分とおとなしくなってたな」

 それはきっとおまえを覚えてなか――

「みんな大人になったんだなぁ……」

 あぁ、哀れだ。このことについて考えるのはやめておいてやろう。

「それでトメ、おまえは彼女いるのか?」

 唐突だなオイ。

「いないけど」

 友人Aは僕の両肩をがっしり掴み、力強く言った。

「よくやった!!」

「ぶっ殺すぞコノヤロウ」

「いやぁ、よかったよかった。ユカちゃんが彼女だったときには何回殺してやろうと思ったことか」

「思うだけじゃなく言ってただろうに」

「あ、そっか。『死ね』って87回ぐらい言ったときがあったな。あと13回は大人になってからに取って置こうと思ってたんだ」

「……その後もけっこー言われた気がするが」

「あれ? 870回言ったからあと130回言うんだっけ」

 おまえはどんだけ僕に死んでほしいんだ。

「ま、おまえに彼女がいないなら残りを言うことはないだろう。ただし」

「ただし?」

「おまえが彼女いないのをいいことに、友達以上恋人未満な女性たちを囲ってたりなんかしたら」

「そんなわけないだろ」

 そんなわけないよな? うん、ないない。

「もしそうだったら、俺は邪神になる!」

「邪神Aか」

「そうだ、邪神となって全力をもっておまえを罵る!!」

 邪神のわりにやること小せぇ。

「そうならないことを祈ってるぜ。じゃ、俺は仕事があるから」

「おう……何の仕事だ?」

「ひみちゅ」

「キモい」

「てへ」

「殴られたくなかったらさっさと行け、オカマA」

「へへ、またな!」

 相変わらずのふざけっぷりだ。でもまぁ、なんとなくいいヤツっぽいところは変わってないみたいだ。今度うちにでも呼んでみるかな。

「あれ、誰か何か言ったか?」

 どこからか『死亡フラグ』という声が聞こえたような気が……空耳か。

「しかし僕の周りには職業を隠したがる人が多いなぁ」

 ユカといい友人Aといい……ヤバい仕事やってないだろうな。



************************************************
 意外と彼を覚えていた人って多いんじゃないかなーなんて思ったりします。

 でも名前はあげない。

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